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みなさん、こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。
やっと夏らしくなってきました。夏が暑いということは日本経済のためにはとっても良いことなのですが、個人的にはこのじめじめした暑さは何とかならないものかと思ってしまいます。

さて、最近みなさんは何かに「感動」しましたでしょうか。
こんなことを尋ねると、突然何を言うのだとお叱りを受けそうです。
私はどうかと言いますと、もちろん、してません。
いや、正確に言うと、何かに「感動」はしているのでしょうが、思い出せないのです。
年のせいでしょうか。

インターネットで「感動」について調べていたら、次のような調査結果が出ていました(注1)。それは、「1ヶ月に1回以上感動したことがある」という質問に対し、10代では50%、20代で48%となっているのに対し、50代で30%、60代で33%と年齢を追うに従って「感動」する頻度が下がってゆくというものです。この調査報告では、その理由を「経験が豊富になるにつれて、物事に対する期待レベルが高まり、それが満たされにくくなるということが考えられる(例えば、おいしいものを食べ慣れていると少々のものではそのおいしさに感動しなくなる等)」としています。

この考え方は、うなずける面があります。
私事になりますが、私共の三男は、現在高校一年生で寮生活を送っています。最近夏休みで家に帰ってきていますが、何を食べても、「うまい、うまい」といって食べてくれます。この光景は回りで見ていてもとても気持ちのいいものです。聞けば、寮の食事は半端でなく、「まずい」とのことです(寮の給食を作っている方々の名誉のために申し添えますと、1日200円で必要な栄養を摂取させなければならないため、「味」の方は致し方ないというのが実情だと思います)。寮に入る前はほとんど無言で食事をしていた子供が、寮の食事に慣れることによって、食事に対する期待レベルが下がり、何を食べても「おいしい」と感じるようになった訳です。

このように考えると、「感動」とは、自分が持っている「期待レベル」と体験したことのギャップであると言うことができます。もちろん、自分が持っている「期待レベル」よりも、その体験が下であれば、これは「感動」ではなく、「怒り」になってしまいます。年を取ると「怒り」っぽくなるというのは、年齢を重ねることによってさまざまなことに対する「期待レベル」が上がってしまっているからなのかも知れません。

期待レベルと体験とのギャップが感動を生む原因だとすると、感動しやすい体質(変な表現ですが・・・)を作るための方策が見えてきます。一つは、期待レベルを下げるということ。期待レベルを意識的に下げることが出来ればちょっとしたことにも感動しやすくなります。今は、死語になっているのかも知れませんが、昔は女子高生を指して「箸がころげてもおかしい年頃」などと称しました。まさに、何にでも感動できる年頃ということです。

では、どうしたら「期待レベル」を下げることができるのでしょうか。

一つには、先程紹介した私共の三男のような境遇に身を置くという方法があります。つまり、普段はなるべく文化的な生活とはかけ離れた生活を送るということです。無人島の一人暮らしのような生活を送ることができれば、たまに参加するパーティなどは感動の連続でしょう。

もう一つは、「当り前」、「当然」という言葉を使わないということです。自分の感覚、体験、常識に照らして「こうしてくれるのは当り前」、「こうなるのは当然のこと」という感覚から脱してゆくという方法です。コップに半分水が入っているのを見て、ある人は「なんだ半分しか入っていないのか」と嘆き、ある人は「ああうれしい、半分も水が入っている」と感謝する。要は自分の物の見方を固定しないというやり方です。

(つづく)